Jin's Report 2009

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再戦

第11戦 11月14日

【移動距離711マイル/約1137.6km】
“Brawley Cattle Call” Brawley, California (PRCA)
“ブロウリー・キャトル・コール”
カリフォルニア州 ブロウリー

今回のレポートはかなり長い。一試合だけのためにわざわざカリフォルニアまで行ったのだが、過ごした日数に比例したのか、それだけ書きとめておきたいと思う出来事が重なった。その日ごとに書かないで、まとめて書いてしまいました。最後まで読んでいただけるとありがたいです。

第11戦

ユタを出発したのは12日、木曜日の早朝。再びI-15を南下する。今回は一人旅ではない。ロデオは土曜日の昼と夜の2回、日曜日の午後に1回、計3回。その3回のロデオでルイはブルファイターを勤める。私がブルに乗るのは土曜日の夜だけ。例年であればルイは家族全員を連れて行くのだが、今年はやはり経済的な事情で私と二人だけで行くことにした。
車も彼のピックアップではなく、より燃費の良い私のプレリュードだ。狭い車内は二人の荷物で埋まった。
700マイル超の道のりを休憩らしい休憩も取らず、2回の給油だけで走りきった。私がラス・ヴェガスまで運転したのだが、昼食のブリトーを食べるのに両手が必要だったために、これを食べている間は助手席のルイがハンドルを握っていた。フリーウェイを走りながら、の話だ。こんなことも二人で旅をしているから出来ることだろう(人に薦められる運転ではないが)。ラス・ヴェガスを過ぎてフリーウェイを下り、ハイウェイ95号線に入るところでルイと運転を変わった。
ハイウェイ95号線は砂漠の中をひたすら走るだけで、とりたてて珍しい景色は無い。しかも小刻みなアップダウンが多く、ネヴァダ、アリゾナ、カリフォルニアの州境を縫うような感じで道が続く。東西をつなぐI-40に乗り入れては別れ、南へ。さらにI-10に乗り入れて、最後はハイウェイ78号線を西へ。約12時間で辿り着いた。

第11戦

ブルファイターとして招待されているルイのために実行委員会がモーテルを用意してくれていた。金曜日と土曜日の宿泊代は彼らもちで、私たちが払うのは木曜日だけでよかった。荷物を部屋に運び、簡単に身支度を整え、実行委員の一人でもあるダニー・ウィリアムス氏の自宅へ向かう。ルイはTシャツに短パンだ。ユタに比べると、かなり暖かい。
私たちはディナーに招待されていた。私はダニーのことを覚えていないのだが、彼は私のことをよく覚えている、とルイが話してくれた。どんな人なのか、まるで覚えていない。モーテルから10分とかからない彼の家についてみると、彼の奥さんがディナーの支度をしていた。眼鏡をかけたダニーと再会して、顔を思い出した。
肉の塊をローストするのはダニーの役目で、その付け合せを奥さんが担当していた。オーブンで仕上げる色とりどりの野菜とジャガイモ料理、ベイクド・ビーンズ、そしてサラダ。集まってくる人々はみな片手にビールやワインを飲みながら談笑し、料理の出来上がりを待っている。外にあるバーベキューで肉の様子をうかがっていたルイとダニーがキッチンに戻ってくるとダニーが奥さんにこう言った。「ジンがブルライディングをしていないあいだ、日本で何やっているか知っているかい?シェフなんだってさ!」ルイがうしろで笑っている。周りにいるみんなが一斉にこちらをみて口々に「なんだよ、じゃぁ何か作ってくれよ!」とはやしたてる。こうなるといくら「ただ料理が好きなだけ」と弁解しても、遅い。結局サラダのドレッシングを作らされる羽目になった。
“和風”がいい、とダニーの妹さんにいわれて薄口醤油、酢、ごま油、日本酒、ディジョン・マスタードを用意してもらって簡単に作ってあげた。それだけでもずいぶん喜んでくれた。

第11戦

サラダを仕上げている間にダニーから懐かしい話を聞いた。2001年、初めてカリフォルニアでのロデオに出場したときの話だ。ロス・アンジェルスの空港に着き、知り合いにピックアップしてもらってオレンジ・カウンティ(郡)のカウンティ・フェアに直行し、その日行われたアマチュア・ロデオに出場した。ダニーはその日のことを覚えていた。私はダニーがそこにいたことすら覚えていなかった。日本から到着してすぐにブルに乗った私も私だが、振り落とされてアゴを踏みつけられ、ざっくり裂いて結果として二層に渡って40針縫うケガを負った。血だらけになったこともあってダニーは覚えてくれていた。
2年前、私はこのブロウリーのロデオに出場して悔しい思いをしている。私はダニーと、そのときに会ったのが初めてだと思っていた。私が初めて出場したカリフォルニアのロデオで、二人は出会っていた。これも縁だと思った。

肉が焼きあがり、他の料理も出来上がり、バフェ・スタイルでそれぞれがお皿に料理を盛り付け、いくつかのテーブルに分かれていただいた。ありがたいことに、サラダはみんなに喜んでもらえた。
終盤になって、ロデオ・アナウンサーのランディ・コーリーも奥さんを連れてやってきた。今年のNFRのロデオ・アナウンサーも務める、すでに“伝説”ともいえるロデオ・アナウンサーの一人だ。彼に会うのも2年ぶりだ。
ダニーの家族も含めて、この日集まった人たちから私はなんの違和感も無く迎えられ、温かいもてなしを受けた。この日の夜はすこし長かった。

第11戦

13日は実行委員会主催のパーティーが開催された。ストック・コントラクターのFlying U Rodeoのスタッフ全員、ブルファイターの二人、このロデオにスポンサーとして資金を提供してくれた地元の企業、町の関係者、このロデオにかかわるほぼすべての人が招待されていた。いわば前夜祭のような形で、実行委員会からはスポンサーに謝意が述べられた。メインディッシュはローストビーフだった。メキシコの国境に近いという地理的条件もあったのか、前菜やサラダなどはメキシカン料理の趣だった。どの料理もすばらしかった。
この日は次の日のことも考えて、ルイと私は早々に引き揚げた。

第11戦

14日、ロデオ当日。午後2時から1回目のロデオが始まる。グランド・エントリーに続いて、ワイルド・ホース・レース、スティア・レスリング、ベアバック・ライディングと続く。珍しいことに、ティーム・ペニングまでがプログラムに組み込まれていた。
ブルライディングにはハワイ出身でNFRにも8回出場した40歳のマイロン・デュアーテがエントリーしていた。直接彼のライドを見る機会に恵まれたのは、これが初めてだ。
が、この日の彼はトラブル続きだった。ブルにロープを巻いてから重心を前に移行しようとするのだが、ブルがシュートのスライド・ドアを乗り越えようとして、なかなか体勢を整えられない。その後もブルは非協力的で、マイロンはおろかストック・コントラクターまでフラストレーションが溜まっていく。観客は今か今かと盛り上がっていくが、このブルはどうにもおとなしくしてくれない。巻いたロープをほどき、また巻きなおす。3回繰り返したのちに、結局、違うブルに乗り換えることになった。
ところが、このブルも曲者だった。それとも機嫌が悪かったというべきなのか、先のブルと同じく非協力的で、シュートのなかで暴れまくる。ブルライダーの心理としては、このシュートのなかで体勢が整わないうちに出たいとは思わない。ストック・コントラクターは「早く出ろ!」とせかすが、言われるがままに出ても良い結果はで出ない。マイロンは首を縦には振っていない、とあとで話していたが、ゲート・マンはゲートを開けてしまった。準備のできていなかったマイロンは、最初のジャンプで振り落とされた。この場合にリライドはない。試合後もしばらくは、誰も寄せ付けない雰囲気を漂わせていたが、落ち着いたころを見計らって、声をかけた。一体何があったのか?

第11戦

結論からすると先に述べたとおりなのだが、こういうブルに当たったときは、正直悔しさをどこに向けていいのか迷う。せかすストック・コントラクターのせいにすることも可能だし、開けてしまったゲート・マンに責任をなすりつける事も出来る。しかし、ゲートが開くその瞬間まで、どんなことがあろうと士気を乱しては、たとえNFRに出場経験のあるベテランですら、何も出来ずに終わる。エントリー・フィーを払い、このブルに乗る権利を得たのはマイロンだけだ。周りに振り回されること無く、ブルの動きを見極め、『出る』、その瞬間を逃してはならない。その瞬間まで、冷静でいなければいけない。メンタルが、こういうときにも問われる。良い教訓を最高の例をもって教わった。
私から彼への質問はひとつだけだった。2ヵ月後に41歳となる彼をして「まだ続けている理由はなにか?」
私が、決まって聞かれる質問だった。私より年上のブルライダーを探すのは難しい。が、今ここに一人いる。聞きたい、素直に思った。彼の答えは「これが好きだから、この競技で競うことが好きだから」、それだけだった。ほぼ一年間、ケガもあってロデオから遠ざかっていたらしい。しかし、彼は戻ってきた。
「おそらく、あなたが止めるまで私も止めないと思う」そう伝えると、初めて笑った。

第11戦

午後のロデオが終了したのが夕方5時。エントリー・フィー121ドルを支払う。私のブルは#721 White Table(ホワイト・テーブル)。10月2日のベイカーズフィールドで乗ったブルだ。老齢だが、いまだによく暴れる。私にとって、初めての再戦だ。

第11戦


夜のロデオまで2時間ある。しかもロデオそのものが長い。私の出番は9時過ぎだろう。にもかかわらず、気持ちは高ぶっていた。というのも2年前のここで、Flying Uのシマロンというブルに私は7.1秒で振り切られた。もしかしたら、プロの試合で初めて8秒乗れていたかもしれない試合だった。このブロウリーは私にとって、忘れられない場所だった。
陽が沈んでからは格段に冷え込んできた。身体を冷まさないように、常に身体を動かしながら出番を待った。サドル・ブロンコが終わってしばらくして、ブルたちが運ばれてきた。Flying Uで長いこと働いているトニーから「今日は反対側の右向きのデリヴァリーに彼を入れるから」と教えられていた。前回は左向きのデリヴァリーから出ている。
ユタを出発する前日のコールバックで、ホワイト・テーブルに当たると知ったときは思わず歓声をあげたほどだ。初めて、同じシーズン中に同じブルに当たる。ある程度知っているブルに当たるというアドバンテージは大きい。こういうときに自分が撮っていた動画が役に立つ。落ちた試合とはいえ、私は繰り返しスローで見ていた。
ここでデリヴァリーが変わることで、何がどう変わるか?ブル自体の向き不向きもある。左に回っていたブルが右に回る可能性もある。前回のホワイト・テーブルは右に横滑りするように動いてから向きを左に変えた。私はそこで落ちている。条件は同じではない。より暴れてくれるならば、なおさらいい。

第11戦

出場選手は12人。ユタから来ていたエリックとコーディは反対側のデリヴァリーからだった。私の出番は早めにやってきた。ロープを手に巻いているときにアリーナにいるルイに喝をいれられた。両脚をヒザのところで曲げ、そのヒザをホワイト・テーブルの肩の辺りにあて締める。重心を前方で維持するために右手を前にして出た。
ゲートが開くやいなや、白い巨体が弾み出る。すぐに右へ回る。明らかに前回と違う。勢いが下へ向かう。そのまま右に回る。ワイプ・マイ・ハンドの型でブルの中心からずれないようについていく。3回転目に入ったところで上半身が後ろに反ってしまい、外側に振り切られる。後方に飛ばされるならまだしも、最悪なことに彼の足元に落ちた。彼の後ろ足が私の右の肋骨を直撃した。1500パウンド近い体重だ。立ち上がれずに、そのままハイハイをするような形でシュート際を這って歩き、反対側のデリヴァリーに辿り着いた。引き起こしてくれたのはルイだった。
呼吸も難しいが、なぜか背中の左下部分が痛む。もう一人のブルファイターのティムからロープを受け取り、シュート裏に戻った。歩くことは出来た。

残念ながら、動画は撮れていなかった。頼んでいたのだが、バッテリーが途中で切れたらしい。変わりに、もう一人の選手が自分のブラックベリーで撮ってくれていた。それを見せてもらい、自分のライドを把握できた。
「スタートはすごい良かったじゃないか!」フランク・ストラップを締めたFlying Uのリノも含めて、観ていた人たちに言われた言葉だ。反対側で観ていたエリックからも「絶対行けると思ったのに」と言われた。スタートは良いが、それが8秒続かない。落ちてしまっては意味が無い。ブルライディングの難しいところだ。
これが、私の2009年最後のブルライディングだった。

第11戦

土曜の夜もやはりパーティーが待ち受けていた。Flying Uの連中とルイと飲まざるを得ない状況だった。ルイは明日もブルファイターとして出場する。2日間で、36人がエントリーしている。私は1回乗るだけで良いが、彼は36回ブルと相対する。私は決して、ブルファイターになりたいとは思わない、彼には申し訳ないが…。
ひととおり、ダニーや実行委員会の人たちと会話する程度にして、私たちは引き揚げた。モーテルに帰ってからも、ベッドに横になるのすら辛い。しぜん、すべての動きが遅くなる。
痛みが増したのは翌朝で、ベッドから這い上がるまでに時間がかかった。ダニーの家に朝食に招待されたあと、一度モーテルへ戻り、荷物をまとめてすべて車に積んでからロデオ・アリーナへと向かった。この日のロデオは1時から。驚いたことに、この二日間、3回とも観客席はほぼ埋まっている。昨夜の一般席は売り切れたそうだ。53回目を迎える“Cattle Call”の歴史は古く、その生い立ちはアリーナ脇の観客席の前に記念碑として掲げられていた。このロデオも町の人たちに愛されている。この町で一番大きなイヴェントが、このロデオだ。

第11戦

この日もすべての種目が終わるまでに3時間を要した。ルイは疲れきっていて、最後のブルライダーがアリーナを出ると、まっさきに知り合いのピックアップ・トラックへ行きビールを一缶飲み干した。しばらくすると、実行委員会の人たち、ダニーの家族や、Flying Uのスタッフ、ランディ・コーリーと彼の奥さんまでが、ダニーのトラックと隣にとめていた私の車の周りに集まってきた。しばらくここでみんなと話しながら、この二日間のロデオを振り返ったり、来年の話をしたりしていた。
このあと、何人かでディナーを食べに行こう、という話になり、町のメキシカン料理の店へ向かった。その町のロデオを開催する実行委員会の人たちとストック・コントラクターとが、これほど密な関係を築いているという例は、ルイによると稀らしい。

私がカリフォルニアで初めて出場したオレンジ・カウンティのロデオもFlying Uがストック・コントラクターだった。あの日が、このような形でこの日につながるとは誰も想像しなかっただろう。私のことを覚えていたダニー、彼の地元のロデオにもストックを供給し続けているFlying U、そのつながりの中に、たまたま入ってしまった私。「ロデオにかかわる人たちはみなデカイ家族みたいなもんだよ」、ルイの一言には納得がいった。
食事を続ける彼らをあとにして、ルイと私は店を出た。700マイル超の道のりが待っている。絶えず携帯で連絡をとりあっていたルイの子供たちも、父親の帰りを待っている。疲弊しきった身体とともに車を出した。
夜が明けて、ユタの景色を見回してみると雪色に染まっていた。
すでに冬だった。

 

 

このレポートが更新されるころ、私はまた日本に帰る。また一時帰国だ。引き続いての2010年シーズンをなるべく早く再開したい。
『2009年』としては、なにも良い結果を残せなかったが、このブロウリーで知り合った人々も含めて、私の宝は確実に増えた。ロデオを通じてだけではなく、わざわざ取材のためにユタまで駆けつけてくれた方もいた。いくつかの取材を受けたけれど、すべての方々がロデオやブルライディングという競技に対して深い興味を示してくれた。このような方々も含めて、今年出会えたすべての人たちに、この場を借りて感謝いたします。
どうもありがとうございます。

 

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